日々ごにょごにょ

なんもない日は穏やかに、なんかあった時は大袈裟に語ってしまう日記。

母のこと

前回のログをupしてから、そういえば母のことをきちんと書いてなかったと気づいた。

 

 

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母が検査入院したのは6月29日。

 

 

母は昨年から、しきりに胃を痛がり、殆ど食べなくなってどんどんやせ細っていったが、誰がどう説得を試みても頑として病院に行くのを拒んでいた。

 

それより少し前から(父談)認知症の症状があるなと素人にも分かるような状態だった。私が電話する時もいつも、身体の心配をする言葉以外を発しなくなった。

 

 

その日の朝、母は嘔吐した。

吐瀉物の中に血が混ざっていた。

 

それを見た父は、母を近くのクリニックに無理やり連れていった。母はその時も通院を拒んだそうだが、父はもうそれを聞かなかった。

 

そのクリニックにて

消化管のエコーをするため母が上半身裸になった時、母の左胸に、素人目にも明らかな程の腫瘍があるのを初めて父は知った。

 

エコーでは幽門がほぼ塞がっているのが分かったとのこと。食べられないことの理由はそれで、嘔吐は、胃から下に出られなかった食べたものの残骸が、胃を満たしてしまって起きたことだったと説明されたと父が言っていた。

 

診てくれた医師はすぐさま大きな病院宛の紹介状を書いた。

 

後にその医師に私自身が会った時に、医師は母が連れてこられた時のことを

 

「姿をパッと見てすぐにこれはやばいと思った」

 

と振り返った。

 

 

父はクリニックから直接病院に向かった。

その病院の医師は、血液検査とCTを行い、輸血を始め、とりあえず1日入院という決断をした。

 

昼間父が私にメールをくれていたのだが、私がそれに気づいたのは、仕事が終わった後の17:30頃。

 

慌てて電話したら、憔悴し切った父の声が聞こえた。

 

急いで帰宅して、それからすぐにでも帰省しようかと考えたが、ウチからは片道4時間以上かかるので、翌日朝帰省することにした。

 

夜、医師から連絡を受けた兄と話した。

 

母がステージⅣの乳がんらしいということ、胃にもがんと思しきものがあること、そして、

 

母が「家に帰りたい」と取り乱しているということを聞いた。

 

 

その後の電話で、翌日の14時に医師から説明を受ける時間をもらったと聞いたので、それに間に合うように新幹線に乗って帰省した。

 

今はコロナ禍のため病院は原則として面会禁止だというのは私の勤務先がそうなので知っていたが、母の入院先もやっぱりそうで

 

行きの新幹線の中では、父の

 

「もう母さんに会えないことは覚悟した」

 

というひと言が頭の中にこびりつき、私もそれを受け入れなければならないのかと思っていた。

 

父と合流し、病院へ。

仕事中の兄も中抜けして遅れてやってきた。

 

ちなみに母には、看護師さんたちの配慮で、医師から話を聞く前に病室で会うことができた。

 

 

医師がした診療の内容は、この説明の時に知った。

 

血液検査では炎症反応が高く、ヘモグロビンが驚くほど低いことがまず判明。かなりの貧血状態だった。

 

きちんと見ていないのでちょっと自信はないけど、腫瘍マーカーは検査していなかった様子。

 

CTの画像では、左胸の腫瘍が肌を突き破らんばかりに大きくなり、明らかに胸の形が変わっているのが分かった。

 

胃は、肌に近い方が白くぶ厚くなっていて、そこにも腫瘍が有るであろうことが分かった。

 

白い斑点は胸と胃の他、周囲のリンパ節、肝臓にも少しあり、胸か胃の癌が周囲のリンパ節だけではなく肝臓にも転移していると医師には見えたようだ。

 

遠隔転移があるため、ステージⅣ。

 

胃の腫瘍から出血しているだろうから貧血状態なのだろうけど、腫瘍を刺激するリスクを考えたら内視鏡は入れるべきではない状態だとのこと。従って止血ができない。

 

そのためそれ以上の詳しい検査もするべきではないし、するメリットもあまりないように思うと医師が話してくれた。

 

(但し、後に、原発乳がんで、胃は転移した癌が幽門を塞ぎかけているのではと聞いた)

 

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診断は、乳癌、転移性胃癌、転移性肝腫瘍、複数のリンパ節転移、そして、認知症

 

医師はやんわりと「ここではもう何もできない」と話し、母は強く帰宅を望み、父も母には家にいて欲しいと考えたため、話は自然に【退院⇒在宅診療】という線に向かう。

 

ケースワーカーの方の説明も聞き、退院の手続きをして、痛がる母にカロナールを処方してもらって帰宅した。

 

 

 

 

続く。